活動レポート

オキナワを知ろう!元高校教員による「オキナワ平和学習~沖縄戦と基地~」

2017年3月4日(土)、「オキナワを知ろう!元高校教員によるオキナワ平和学習会~沖縄戦と基地~」をパルシステム東京新宿本部で開催し、組合員・役職員52名が参加しました。

 

現在、多くの観光客で賑わう沖縄。しかし太平洋戦争の末期には、日本で最大の地上戦の地となり、住民を巻き込み多くの犠牲を出しました。
沖縄について学び考えるため、元高校教員で、現在は「未来をひらく歴史」学習会講師の塚田勲先生をお招きし、沖縄戦と現在の基地をめぐる問題について、お話しいただきました。

講師:塚田 勲(つかだ いさお)氏

講師:塚田 勲(つかだ いさお)氏

「未来をひらく歴史」学習会講師・元都立高校教員・元都立大学講師
都立高校の社会科教員、都立大学の講師として長く教鞭をとられ、現在は「未来をひらく歴史」の学習会講師として、 多くの市民活動の場などで、講演を行っています。

パルシステム東京が参加している日本生協連・沖縄生協連主催の「沖縄戦跡・基地めぐり」の事前学習もかね、毎年講演をお願いしています。

 

塚田先生が撮った沖縄の「いま」

※学習会の冒頭、塚田先生が自ら足を運び、撮影した沖縄の写真を投影しながら、沖縄の現在の姿を紹介されました。(紹介された写真の中から一部を抜粋したもの)

普天間基地  住民の住む住宅街のすぐそばに広がる基地。基地  からは次々とオスプレイが飛びたっていきます

普天間基地 住民の住む住宅街のすぐそばに広がる基地。基地 からは次々とオスプレイが飛びたっていきます

普天間基地  住民の住む住宅街のすぐそばに広がる基地。基地  からは次々とオスプレイが飛びたっていきます

2004年8月、沖縄国際大学に米軍機が墜落 沖縄の人々が衝撃を受けた惨事を示すのは、今はこの 樹木のみ。

魂魄の塔  沖縄終焉の地で戦没した遺骨約35000体を合祀する沖縄  最大の慰霊塔。 戦後、いたるところに散在していた白骨を  村民が収集しとむらった。

魂魄の塔 沖縄終焉の地で戦没した遺骨約35000体を合祀する沖縄 最大の慰霊塔。 戦後、いたるところに散在していた白骨を 村民が収集しとむらった。

魂魄の塔  沖縄終焉の地で戦没した遺骨約35000体を合祀する沖縄  最大の慰霊塔。 戦後、いたるところに散在していた白骨を  村民が収集しとむらった。

南北之塔 戦後この地を訪れたアイヌ出身の元兵士が、4千体もの 白骨がそのままになっていることに衝撃を受け、1966年 集落の人と共にたてた納骨堂・塔。

辺野古海岸  キャンプシュワブ(在日米軍海兵隊基地)前のテント村  では連日、基地反対の座り込みが続けられている。

辺野古海岸 キャンプシュワブ(在日米軍海兵隊基地)前のテント村 では連日、基地反対の座り込みが続けられている。

辺野古海岸  キャンプシュワブ(在日米軍海兵隊基地)前のテント村  では連日、基地反対の座り込みが続けられている。

伊江島 住民の土地を接収し、飛行場が建設された伊江島。 米軍上陸により村民約1500人が犠牲に。

沖縄戦について

1945年3月末から開始した米軍による沖縄攻撃。54万人にのぼるアメリカの軍隊に対し、日本軍は11万人。「はじめから勝つ見込みのない無謀な戦い」だったと塚田先生は話します。
沖縄戦における日本側の戦没者数は、18万8136人にのぼり、そのうち沖縄県民は12万2228人といわれています。(出典:沖縄県援護課資料より)

しかし、公表されている戦没者数には、マラリアによる病死、飢餓などの県民の犠牲者や朝鮮人の戦没者は含まれておらず、それらを含むとさらに膨大な人々が犠牲になったと推定されます。

◆沖縄戦と子どもたち

沖縄戦で特徴的なこととして先生が挙げたのは、子どもたちの犠牲です。
まだ幼い10代の子ども達が戦争にかり出された学徒隊。学徒隊というと、戦いの中で命を落としたと語られることが多い中、塚田先生は「日本軍は全滅直前に学徒隊を解散し、そのことによって行き場を失った生徒たちが逃げ惑う中で多くが命を落とした」と言います。
先生が引用した統計では、0歳~13歳の子どもの11,483名がなくなったとされています。(出典:「大田昌秀が説く沖縄戦の深層」(高文研2014))「戦後、沖縄戦で亡くなった子ども達の正確な統計はとられず、現在残るのは不確かな統計だけ。それでも、多くの子ども達が犠牲になったことが分かります。」と塚田先生。子ども達が犠牲になった戦争、それが沖縄戦なのです。

 

◆米軍占領下、日本政府の下で県民は...

戦後、米軍は沖縄本島の住民を12地区に分散収容、住民が元の土地に戻ってきた時には、ほとんど全ての住宅が破壊され、すでに米軍基地がつくられていました。
その後、サンフランシスコ講和条約によって日本本土の占領状態は「終了」となりました。一方で、沖縄は占領下に置かれたまま。県民の長い・厳しい戦いによって、1972年に沖縄返還協定が発効。しかし、現在も基地の問題の中に沖縄はあります。

そんな占領下の沖縄でつくられた歌として、塚田先生から「二見情話(ふたみじょうわ)」「陳情口説(ちんじヨうくどウち)」の二つの歌が紹介されました。
「二見情話」は米軍により二見の民間収容所に移送された照屋朝敏(てるやちょうびん)が、故郷・首里に戻る前に二見の人々への感謝の気持ちと沖縄戦を謳った歌。
「陳情口説」は土地を追われた農民が、沖縄の現状を全島の県民に訴えカンパを募りながら歩いた歌。どちらも、三線の音と沖縄方言のゆったりとした響きの中に非戦の思いが込められているようでした。

◆米軍基地と沖縄経済

戦後の沖縄では、県民自らが戦死者たちを弔い、経済を復活させ、悲惨な戦争の記憶を語り継いでいきました。現在では、辺野古の新たな基地建設によって、「あのような戦争をまた起こさないように」との思いで、基地について、そして戦争について対話し、行動することをはじめています。
「『沖縄は基地で潤っているのでは?』と言う人もいますが、基地による経済効果は、今や沖縄全体の5%を切ってしまっています」と塚田先生。「櫻澤誠「沖縄現代史」中公新書2015」の統計では、普天間飛行場が返還された際の経済効果として、返還前には「従業員数197人、軍雇用者所得 10.9億円、軍関係受取93億円」が返還後には「雇用誘発人数3万2090人、直接経済効果4522億円」と試算されています。
「沖縄の経済発展にとって、基地はマイナスというのは、一部の人々の思いではなく、県民の共通認識になってきている」と先生は言います。

◆オール沖縄

最後に、塚田先生から、これからの沖縄を考えていく県民たちの言葉として、オール沖縄「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議」の結成アピール結びの言葉を紹介し、学習会は終わりました。
「基地に支配されつづける沖縄の未来を、私たちは拒絶します。そのような未来を子どもたちに残してはなりません。私達には、子どもたちに希望のある沖縄を引き継いでいく責務があり、沖縄らしい優しい社会を自らの手で自由につくっていく権利があります。」
(オール沖縄「沖縄『建白書』を実現し未来を拓く島ぐるみ会議」の結成アピール結び(2014.7))

■参加者からの感想

塚田先生のお話を聞き、参加者からは様々な感想が寄せられました。
・もっと多い人々が沖縄の事を知り、自分の問題と、とらえていく必要が大切であると改めて思い知らされた。
・沖縄戦については知らないことはまだまだ沢山ありますが、このような機会でこれまで知らなかった事を知ることが出来て良かったと思います。もっと多くの人に、沖縄戦について知ってもらいたいと思いますので、またこのような学習会を開いてください。
・沖縄には一度行っておりますが、全く知らないところの映像をみて感動しました。塚田先生のわかりやすく誠実な説明が心にしみました。
・戦争、基地問題について考える良いきっかけとなりました。
・すごく分かりやすい資料とお話をありがとうございました。多くの私と同じような年の子供達が亡くなった事がしょうげき的でした。今日、聞いたことを忘れずに日々すごしていきたいです。