活動レポート

スーザン・サザード氏インタビュー ~語りつなごう 平和への願い~

エコ&ピースナビゲーターvol.39のテーマは「語りつなごう 平和への願い」

2023年の8月15日で終戦から78年となります。

悲惨な戦争を繰り返さないために、若い世代に戦争体験の継承をすることはとても大切です。

エコ&ピースナビゲーターvol.39に掲載された、アメリカでナガサキの原爆についての本を出版したスーザン・サザードさんにお話を聞きました。

著書『Nagasaki Life Ater Nuclear War』

 

スーザン・サザード氏

スーザン・サザード氏

<プロフィール>
アメリカ、ノースカロライナ州在住。

高校時代、日本に留学をし、その後、被ばく者である谷口稜曄氏の通訳をしたことをきっかけに、ノンフィクション「Nagasaki Life Ater Nuclear War」(以下、「Nagasaki」)を2015年にアメリカで出版。

「Nagasaki」は、5人の被ばく者の人生を軸に、アメリカから見た原爆投下の背景や、戦中、戦後の日本の状況、被ばく者を取りまく社会を描いています。

劇団を創設し、社会から疎外されたコミュニティ(ホームレス、刑務所の受刑者、DVシェルターにいる女性、発達障害のある大人、HIV感染者など)のためのパフォーマンスやワークショップ、研修を32年間続けていた。劇団は昨年閉鎖。現在は両親のケアと執筆活動をしています。

宇治川 康江氏

宇治川 康江氏

翻訳家。アメリカで出版された「Nagasaki」に衝撃を受け、直接スーザン氏に連絡し、翻訳。2019年にみすず書房から「ナガサキ 核戦争後の人生」が出版された。パルシステム東京組合員。

高校時代に日本に留学していたのはどのような理由からですか。

 

 

 他の国、文化の人たちの考え方を習うために留学を希望しました。特にアジアに興味があったので、留学先が日本に決まった時はとてもうれしかったです。

「Nagasaki」は著者のスーザンさんの主観よりも、被ばく者の言葉や経験がメインで描かれています。スーザンさんの主観として、被ばく者の原爆投下後の人生について、一番感じたことはどのようなことですか。

 5人の被ばく者の経験は肉体的、精神的に耐え難いほど苦しいものでした。彼らに何度もインタビューをし、エッセイや新聞記事を読み、講演を聞き、さらに本に書くことで、その体験を繰り返すことは非常に苦しかったです。

 被ばく者の方はそれぞれ異なるユーモアや優しさを持ち、それぞれの個性で自身の被ばくからの人生を表現していたことが素晴らしかった。彼らの核兵器のない世界に向けて声を上げる勇気が素晴らしく、彼らの声や、ナガサキについて本を出せたのは光栄だと感じています。

長崎の原爆投下について、アメリカの人々、日本の人々それぞれに伝えたい事実や思いはどのようなことですか。

 日本に落とされた原爆について、アメリカや世界の人が抱くイメージは今でもキノコ雲の写真だけです。それよりも、キノコ雲の下で何が起こったのかが大事。日本人は、もちろんアメリカ人より原爆の被害を知っていますが、日本の若い方は私が予想していたよりも原爆についての知識がなくてびっくりしました。

 被ばく者のストーリーは被ばく者だけではなく、全世界の人々と共有する歴史の一部だと感じてほしいと思っています。また、日本の原爆投下と世界の核兵器の現状を結び付けてほしいとも思います。

新聞に掲載されていたスーザンさんの取材の中で、「出版後の反応として7~8割は『深く感動した』、残りは『原爆投下は正しかった』という怒りや憎しみに満ちていた」という内容がありました。反発する声はどのような内容がありましたか。

 一つの例として、アメリカで行った講演会の質疑応答で、一人の男性が、日本軍がアジアで行った残虐行為を叫びだしたことがあります。また、自分の父親や祖父が太平洋戦争に行った人は「原爆投下がなかったら私たちはこの場に居なかった」と主張する人もいます。2020年にワシントンポストに社説を掲載したところ、3,300通のオンラインの反響があり、そのほとんどが、日本軍がアジアで行った行動に対する、怒りに満ちた内容でした。

 私は論理的な話で彼らの感情を動かすことができないということはわかっていたので、このような発言に関わろうとは思いませんでした。私の本は日本軍の残虐行為を擁護したり、言い訳に使ったり、正当化するものでは全くありません。アメリカ軍もまた、東京大空襲も含め、民間人が多く住んでいる60か所以上の日本の都市を破壊し、原爆投下や残虐行為を行っています。日本軍の残虐行為とアメリカの残虐行為は共存していて、一方の為に一方を正当化できるものではないのです。日本が残虐行為を行ったからといって、アメリカが日本に原爆を落としていいということにはなりません。

それぞれの個性や考え方はあると思いますが、被爆者の方に共通する生き様や、信念のようなものは感じましたか。

 その方々に共通することは強さ、生きようとする忍耐強さであると思います。あらゆる想像を絶する苦しみと彼らは戦っているのです。

 長崎の生存者の多くの証言を知ることで、生存者が原爆をどのように経験したか、それがどのように彼らの家族、友人、地域社会、周囲に影響を与えたか、どのように幸福を実現したのかを理解することができました。

 本に出てくる5人の被ばく者は身体的損傷、外見からわかる損傷、精神的損傷、家族との確執・・・それぞれの被ばく者が受けた痛み、苦しみを細かく知れば知るほど大変な苦しみがあったのだと知れました。

 例えば、ある少年の話があります。みんなが遊んでいる校庭で、いつも悲しい顔をしている少年がいました。なぜなら、その少年の母親は、今子どもたちが遊んでいる校庭で亡くなったからだったのです。

 本を書くにあたり、被ばく者の方の話を聞くだけではなく、300人の被ばく者の証言を読みました。それによって原爆後の人生、経験を学ぶことができました。被ばく者という言葉でひとくくりになっているが、一人ひとりの体験は全く異なっています。そこがとても大切なのです。

「Nagasaki」を翻訳された宇治川さんにも質問です。宇治川さんがご家族や周りの方からお聞きした、戦前、戦中、戦後のエピソードなどはありますか。

 私の母の話です。母は太平洋戦争時、東京で着物の仕立てを習っていたが、義務として女子挺身隊(女子勤労動員)として軍事工場での過酷な労働に動員されていました。家に戻れば空襲におびえる日々が続いて、毎日生きた心地がしなかったといいます。毎日野菜の切れ端しか入っていないようなすいとんで、いつも空腹だったと。

 そのせいか、戦後は食べ物やそのほかのものを大事にしていました。食べものを粗末にしたり、またある時、満腹になった私が「死ぬほど食べた」というようなことをいったらひどく叱られました。食べるものに困った経験のある母にしては耐えがたい言葉だったんでしょうね。

 そのころは若くて真剣に耳を傾けていなかったけれども、今にしてみれば、母の言葉を聞いていたことが心に刻まれていて、今の私の行動(「Nagasaki」の翻訳)につながっているのだと思う。

宇治川さんは翻訳時に、改めて被ばく者の方にお話をお聞きされましたね。その際、本に書かれていること以外で印象に残っていることや言葉はありますか。

 本に書かれた5人の被ばく者の一人、堂尾みね子さんです。彼女はエネルギッシュで確固たる自分の個性を持っていた方でした。

 彼女が北海道からの修学旅行に来ていた女子高生に向けた言葉が印象に残っています。

 「20世紀は心をどこかに置き忘れてしまいました。経済重視で心不在の20世紀だった。21世紀は心をよみがえらせる時代にしてほしい。優しい心、豊かな心、人の痛みがわかる人間へと成長してほしい。そういう人間でないと真の平和は作り出せない。私は20世紀、一生懸命にやってきました。21世紀の未来に向かって、今度は皆さんにバトンタッチして、国際社会という広がりの中で、話し合いで解決していける理性的な人間として、社会の中で頑張っていただきたいと思います。一人ひとりが真の平和とは何か、それを学んで体験して、平和な時代を作っていってほしい」という言葉です。

 1930年代に単身上京し、会社の中で人の嫌がる仕事を何度もし、入社した化粧品会社で初めての女性役員になりました。あの時代に、被ばく者というハンデを背負ってそこまでできたという彼女の強さに感銘を受けています。

堂尾さんは本当にすごい人です。堂尾さんのお話ができるのは嬉しいですね。2回目のインタビューの1か月前に亡くなってしまい、お会いしたのは一度だけでした。

字や絵もお上手で、いろいろなものを遺していらっしゃいますよね。うちにも堂尾さんの書が飾ってあります。スーザンさんがコピーをしていただいたんですよね。

うちにも飾ってあります。短歌もお上手で、難しかったですが翻訳したことがあります。

語り部活動をしている時もタイガー柄のプリントの服やきれいなネイルをしていました。「どうしてダメなの?私だから大丈夫よ!」という自分への自信を持っていましたね。

ドラマチックな人生を送っていた方だったんですね。

堂尾みね子さん直筆色紙(スーザン・サザード氏所蔵)

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