活動レポート
2023ピースアクションinナガサキ「ナガサキ平和スタディツアー」
2023.8.15
「戦争も核兵器もない平和な未来を ~被爆78年 未来につなぐナガサキの心~」
2023年8月7日(月)、8日(火)、戦争の恐ろしさを学び伝え、核なき世界の実現に向けての活動「2023ピースアクションinナガサキ」(主催:日本生協連・長崎県生協連)に組合員6名(うち子ども1名)、役職員3名が参加しました。原爆資料館見学や被爆遺構巡り、被爆された方の証言を通して、戦争の悲惨さ、核兵器の非人道性を知り、平和の尊さについて考えました。
1日目:原爆資料館
平和案内人の方のガイドで資料館内を見学しました。長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」の原寸大模型、当時の生々しい写真などが展示され、ここに来なければ感じられないことも多くあります。
被爆の実相だけではなく、原爆落下翌日に、長崎市内の被害の様子を撮影したカメラマン山端庸介や、カトリック教徒であり、医学博士や随筆家として活動した永井隆についても説明がされ、平和案内人の方の穏やかな語り口に、皆さん聞き入っていました。
被爆の証言と紙芝居
資料館見学後、被爆者の方が読む「平和の紙芝居」を聴きました。
紙芝居「お母さんを焼いた運動場」は「原子雲の下に生きて」の中の一編です。
永井隆博士が編集した「原子雲の下に生きて」は、爆心地から700mにあり、ほとんどの児童が命を落とした山里小学校で、わずかに生き残った児童の作文をまとめたものです。
読み手の三田村静子さんは3歳8か月で被爆し、後遺症に苦しんできました。現在は被爆者の体験を紙芝居で伝える活動をされています。
台風のため、二日後に予定されていた平和祈念式典の参列が中止されたことを受けて、「今年一年で被ばく者の知り合いが何人も亡くなった。今年は私が祈念式典の中で原爆死没者名簿を奉納する役割をする予定だったので残念」と話しました。
参加者に「皆さん交流しましょうよ」と気さくに声をかけ、質問に答えてくださいました。
原爆落下中心地碑~千羽鶴献納
平和の紙芝居の講演のあとは、平和公園内の原爆落下中心地碑に向かい、組合員が作った千羽鶴を献納しました。原爆落下中心地碑は1945年8月9日11時2分に、この上空約500mで原子爆弾が爆発した場所にあります。
平和公園内にはこのほかにも様々な碑があり、8月7日にはパネルの展示も行われていました。
平和公園内にある長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑と、韓国人原爆犠牲者慰霊碑にも訪れ、パルシステム東京と韓国のドゥレ生協との交流についても参加者に説明がされました。
平和のまち歩き~平和公園から浦上天主堂~
長崎では高校生~社会人の「青少年ピースボランティア」が被爆地において平和への想いを発信しています。
酷暑が収まってきた夕方から、平和公園から浦上天主堂までの被ばく遺構をボランティアの方に案内していただきました。
浦上地区はキリスト教が日本に伝来した16世紀以来、カトリック信者の多い地域でした。キリスト教が禁止されてからも隠れキリシタンとして信仰は続き、明治初期には「浦上四番崩れ」と言われる激しい弾圧を3000人以上の村民が受けました。生き残った信徒たちがキリスト教が解禁された後、1915年に建立したのが浦上天主堂です。
爆心地から500mの場所にあり、原爆投下により壁の一部を残し崩壊しました。
爆風により首が取れた像や、すぐ横にあった川に落下した巨大な鐘楼が今でも残っています。
2日目:被爆の証言
2日目の午前中は、被ばく者である田中安次郎さんの被ばくの証言を聞きました。
冒頭、「(戦争の話って)な~んか暗いよねぇ」と軽快な語り口で話し始めました。
田中さんは3歳の時に被爆。原爆投下時の記憶としては、「紫色の雲とオレンジ色の太陽」を覚えてるといいます。「背中一面にガラスが刺さってたと母ちゃんは言っていたがそれは覚えとらん」
定年後の、再就職の際、被ばく者であることを理由に、渋い顔をされたという田中さん。いつ癌になるかわからない恐怖とずっと向き合わなければいけないこともあり、被ばく者であることの不利益は生涯続くことを話してくださいました。
「6+9=15、これ何かわかる?8月⑥日が広島、⑨日が長崎に原爆が落とされた日、⑮日が終戦の日。わかりやすいでしょ」
「(被ばく者だから)お前あっち行け!!ってねぇ、仲間外れにされた」
「うちの母ちゃん(奥様)は怒ると怖いけど、3度3度ご飯を作ってくれる。ありがたいよねぇ(拝む真似をして)。昔は1日3回ご飯なんて食べられなかった。」
パネルを持つお手伝いをしたお子様に対しては「学校頑張れよ、はいこれお駄賃。どんぐりあげる。ネコバス乗れるよ」などと冗談も交え、会場からの笑いも出る講演となりました。