活動レポート
パル未来花カフェ~ 被災地・避難のいま、支援、応援をつづけるために~
2019.5.20
パルシステム東京は、2019年5月18日(土)、「パル未来花カフェ~ 被災地・避難のいま、支援、応援をつづけるために~」を新宿本部で開催しました。
当日は組合員・役職員41名が参加し、埼玉で区域外避難者支援をしながら福島でも被災者を取材している吉田千亜さんの講演を聞きました。続けて、パル未来花基金助成団体の取り組み報告を聞き、被災地はまだ復興途中であること、支援、応援し続ける必要があることを学びました。
【講演】多様で普遍的な『おかしいこと』-原発事故後の『言葉』から -吉田 千亜さん講演より-
吉田 千亜氏 プロフィール
大学卒業後、出版社勤務を経て、フリーランスライターに。東日本大震災後、放射能汚染と向き合う母親たちの取材を続ける。原発事故後の状況と母親たちの活動を紹介する季刊誌『ママレボ』、埼玉県に避難している人たちへの情報誌『福玉便り』などの編集・執筆に携わっている。これまでの著書に『ルポ 母子避難――消されゆく原発事故被害者』(岩波新書)、編集幹事、分担執筆を手掛けた『原発避難白書』(人文書院)がある。
震災当時、子どもはまだ小さくて放射能被害は人ごとではないと思い ました。 だから避難者の方に「ここにいていいよ」と伝えたかった
2011年に福島第一原発の事故が起きた時、私は埼玉県に住んでいて子どもは2歳と6歳でした。
埼玉県は福島第一原発からは約200キロメートルの距離で、チェルノブイリ原発事故のことを考えると安全とは言い切れない場所だと思い、2011年7月に市の給食センターに安全性の向上と測定を求めて交渉に行きました。その時、市の職員の方に「大丈夫ですよ。」と鼻であしらわれたように言われ、とても悔しい思いをしました。そして、きちんと調べて、データを集め、ちゃんとものを言える人にならなければと心に決めました。
同じ頃、埼玉県には原発事故による福島からの避難者がいることを知りました。避難者の方に何かできないか、せめて、ほっとできる居場所を作りたいと思った私は、避難者の方にどうお知らせするのか、会場はどうしたら借りられるのか、何もわからないまま手探りで避難者交流会を開きました。
同じ福島からの避難者でも町ひとつ違えば補償や立場が違う。区域外避難者の方とそうでない方も考えが違う。運営してはじめてわかることもたくさんありました。今は避難者当事者の方が運営し、輪を広げてくださっています。
双葉町の消防士の方たちの証言から
これまで、私は避難をした方、避難をしたくてもできずにとどまった方、被ばくを避けたいと願っている方にお話を伺ってきました。お話を伺った方たちは、原発事故直後から「原発事故」「被ばく」に対する周囲の無理解の中、「語りにくさ」を抱え、それでも今なお、原発事故の被害を考え続け、その理不尽さと闘っています。
一方、今、私は雑誌に「ルポ 孤塁-消防士たちの3・11」という連載をしています。これは、ずっと沈黙を守っていた福島県双葉町の消防士の方たちの証言を中心に、当時の双葉郡の様子を書いたものです。双葉郡の住民の方々や、今まで広く知られることのなかった消防士の方々の話からも、改めて原発事故の理不尽さを感じます。
そして、震災当時はまさに「戦時中」のような空気が流れていたことがわかります。その一部を紹介します。
震災直後、福島では約27万戸が停電していたため、福島ではしばらく正確な情報が得られませんでした。そんな中で放射性物質が含まれた雨が降っていたに違いない3月15日に県立高校の合格発表があり、中学生を外出させることに反対をする声もがありました。14日の3号機爆発の直後には、福島県庁が東京電力に対し、「健康被害の心配はない」という文言を、報道発表資料に記載するように要請していました。こういったことがあとになって少しずつ明らかになってきて、根深い不信感を抱くと同時に、保護者は自分の子どもに取り返しのつかないことをしてしまったという後悔の念を抱き続けています。この命を守ってもらえなかった、という「不信」は、単なる「不安(個人の感じ方)」で片付けてはならない被ばくの問題の大切な視点です。
町ぐるみで行う掃除などは、いわゆる「お嫁さん」が地域活動に参加します。例えば、子どもをおんぶして参加することも当然あります。中通りのとある市が、経費を助成して住民が除染作業をするという話が持ち上がったことがあります。2011年秋のことです。女性(特に妊婦や子ども連れ、妊娠する可能性のある女性)は免除した方がいいのではないかと発言した女性に対して、「何言ってるの、こんな時にみんなでがんばらなくてどうするの」と市の職員に言われ、そのあと会場から拍手がわき起こるという普通ではない状況がありました。
また、被ばくを避けたいと願い、避難指示のなかった地域からより遠くへ避難した母子は「非国民」と言われることもあった、と話してくれます。ひどい言い方では「歩く風評被害」とすら言われてしまった方もいます。つまり、国が一方的に基準を決めた「安全だ」という地域から避難したことを、国に逆らったという捉え方をされてしまう。
一方、双葉郡にいるのが消防士だけとなり、訓練も行なったこともなく、本来消防の仕事ではなかった原子炉の冷却を手伝ってもらえないか、という要請を受けたとき、消防士は、「危険だが自分たちがやるしかない」と葛藤しながら「遺書」を書いたそうです。当時は、自分たちは「特攻」「捨て石」扱いをされているのだ、という思いを消防士の方たちは持ったと話しています。
「非国民」「特攻」など、これらの「言葉」を拾っていくと、福島がまるで戦争中と同じような異常な状況であったことを感じます。この言葉だけではなく、被ばくを避けるための小学校の対策があまりにも稚拙で「そんなの、竹槍じゃん、と思った」と話してくれた女性もいました。その女性は、そういった戦時中のような空気を敏感に感じ取り、こうも言っていました。「原発事故は、本当に多くの人が、命の危険にさらされた、ということなんだよね」と。
なかったことにしない、風化させない。
今、国は福島の原発事故をなかったことにしようと動いています。廃棄物フレコンバッグを仮置き場から中間貯蔵施設に運び「見えなくする」。公園の隣に置かれたモニタリングポストを撤去して放射線量を「見えなくする」(これは、住民の方々が反対の声をあげ続けたことで、いったん白紙になっています)。安全と言い切れないものも「安全」と言い切り、被害者が被害を語れないようにする。丁寧に語られるべきである「原発いじめ」や「差別」の問題を、政府の科学的根拠に乗らない人による「風評被害」であるとし、本質から目をそらす。さまざまなことで被害を風化させようとしています。
差別やいじめをなくすことと、事実を知ることや健康被害を慎重に考えることは別の話だと私は思います。双葉郡の消防士の一人は、「あまりに風化が早く進みすぎて、自分たちも話さなければならない、と思った」と話してくれました。原発事故被害を風化させないために、事実を知ること、知ったことを「本当にそうなのか」「それはどういうことなのか」と、吟味することを続けていかなければならないと改めて思っています。
(以上、講演内容より一部抜粋)
2018年度パル未来花基金助成グループ活動報告・交流
講演後は復興応援のお菓子や飲み物も楽しみながら、各助成グループ17団体が今年度の活動報告をしました。どの団体も継続して支援活動を続けていて、被災された方々の力になりたいという思いが伝わりました。
パルシステム東京は、これからも「3.11を忘れない、風化させない」を合言葉に、復興支援活動を継続していきます。