活動レポート

パルシステム東京「広島平和スタディツアー2022」―― 継承そして核なき世界への挑戦

原爆投下の惨禍から77年を迎える広島。

被爆者の高齢化が進んでおり、被爆の実相を伝承していくことが大きな課題となっています。

パルシステム東京では、多くの組合員に被爆の実相を伝承するため、広島平和記念式典に合わせて、8月4日から6日に平和スタディツアーが行われました。

 

パルシステム東京として広島に訪れるのは3年ぶり。今年は役職員で訪問しました。

広島市内を案内頂いたのは「戦争も核兵器もない平和な世界」の実現に向けて活動する「核政策を知りたい広島若者有権者の会(以後カクワカ広島)」のメンバー瀬戸麻由さん。広島県呉市出身でシンガーソングライターとしても活躍しています。

 

当日のダイジェスト動画を公開しています。ぜひ、ご覧ください。

被爆77年 広島平和スタディツアー2022~継承そして核なき世界への挑戦~

軍都広島の歴史-比治山陸軍墓地

西南戦争から第二次世界大戦までの約3,500基の墓石が並べられている

ツアー最初に訪れた場所は「比治山(ひじやま)陸軍墓地」。

広島は「軍の街」と言われており、軍都広島の歴史の中でも初期の1872年明治維新頃にできたのがこの「陸軍墓地」です。

ここは本来畑だったところを軍の施設として開発。丘からは広島市内が一望できます。

 

瀬戸さん:「1日通して伝えたいのは、この時期に来るとどうしても「原爆」についてフォーカスされがちですが、8月6日の前にも後にも広島はありました。今日は原爆の前と後とでそれぞれの感覚で感じていただければと思います。」とツアーの目的を話してくれました。

広島市中心街には被爆遺構「被服支廠」が一望でき、遠くには瀬戸内海が浮かぶ

現在も調査が行われる施設-ABCC(現:放射能影響研究所)

今回は訪れることはできませんでしたが、比治山陸軍基地からほど近い場所に、「ABCC(原爆傷害調査委員会)」があります。

ここは原爆による放射線が人に及ぼす影響や疾患に関する調査研究施設として設けられました。

現在も研究は続いており、福島第一原子力発電所事故があったときも人体の影響はここでの研究での数値が適用されたそうです。

 

当時は検査だけして治療しないことに「わたしたちはモルモットか」と人権を無視したABCCに対する批判の声は強かったと話します。

 

大火傷を負って逃れてきた人々-御幸橋

被爆直後の市民の惨状を記録した唯一の現存写真

爆心地から約2.3キロ南東に位置している御幸橋(みゆきばし)。

 

原爆投下時、爆心地付近では空襲に備えるために建物を壊して防空隊を作る建物疎開に多くの中学生が動員されており、御幸橋には少年少女が多くいたといいます。

 

瀬戸さん:「平和記念公園周辺ですべてが起こったと錯覚しがちですが、御幸橋は爆心地から2キロ以上離れています。比治山の墓石も破壊されていたり、たった1発の爆弾によって街全体にわたる被害が引き起こされたということを感じてもらいたいです。」

 

市街地が燃えさかる中、被爆者は旧陸軍被服支廠を目指して歩きました。

現存する国内最大級の被爆建物-旧陸軍被服支廠

構造は鉄筋コンクリート造とレンガ造が複合する希少な建物。爆風により変形した鉄扉など、被爆の痕跡が残る

ここでは旧陸軍兵の軍服や軍靴などが製造されていましたが、原爆投下直後は負傷者を収容する、臨時救護所として使用されました。

救護所内がすし詰めの状態になるほど、多くの被爆者が詰め寄せましたが、十分な医療物資もなく、治療も受けられない状態でした。

 

原爆投下により広島の街は、ほとんどなにも残らなかった中で、原爆の威力を実際に目撃できる被服支廠はとても貴重な被爆建物です。

 

77年の時を経て現存する建物は、当時あった13棟のうち、広島県所有の3棟と、国所有の1棟のみ。

耐震改修が必要と言われていますが、地元では生活に直結しない原爆遺構に多額の税金を使うことへの反対意見もあります。

 

実際に広島県所有の2棟を解体する話もあがりましたが、瀬戸さんをはじめ、カクワカ広島では全棟保存を求めてインターネットで署名活動を開始し、わずか12日で約1万2千人が賛同したことにより、20年度の解体着手が見送られました。

世界恒久平和のシンボル-原爆ドーム(旧:広島県物産陳列館)

ツアー1日目の最後に訪れたのは、平和記念公園。

原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を祈念して開設された都市公園で、毎年8月6日の平和記念式典もここで行われます。

江戸時代から昭和初期に至るまで広島市の中心的な繁華街だったこの場所も、1945年8月6日の一発の原子爆弾により一瞬のうちに破壊されました。

 

原爆投下時、広島には住居者、軍人、通勤などによる入市者を含め35万人ほどの人がいたと推測されています。

核兵器の非人道性を物語る-原爆供養塔

再会が果たせなかった遺族にとって、供養塔はここで安らかに眠っているかもしれないと供養できる大切な場所

平和記念公園に訪れた多くの参拝者は、原爆死没者名簿が収められている原爆死没者慰霊碑に立ち寄りますが、ここ供養塔には、原爆で亡くなった、約7万人ともいわれる名前の分からない方々が、無縁仏として納骨されていることはあまり知られていません。

 

瀬戸さん:「被爆者の方の話を聞いていて、まだ家族が見つかっていない、帰ってこない。と話される方にとってはここは大切な場所です。今後もし訪れるときは、慰霊碑だけでなくここにもお参りに来る感覚があるといいなと思います。」

民族差別を問い掛ける-韓国人原爆犠牲者慰霊碑

カメの石碑が見つめる先は朝鮮半島があると言われている

原爆により命を落としたのは日本人だけではありません。

亡くなったと推測される14万人の中に、朝鮮半島や中国人、アメリカ軍の捕虜もいたとされています。

被爆者となった後、治療を受けられるかなど、社会の中には差別が起こりました。

 

瀬戸さん:「差別は残り続けるものなので、その部分も忘れないように見つめていかないといけません。この場所に来ると思い出させてくれます。」

原爆の悲惨さを物語る被爆遺品-広島市平和記念公園レストハウス(ピアノハウス)

原爆ドームと平和記念公園を結ぶ元安橋のたもとにあるレストハウス

広島市平和記念公園レストハウスの2階はカフェスペースとなっており、広島で被爆死した女学生の遺品であるピアノが展示されています。

「あの日の出来事を伝える貴重な被爆遺品」として原爆の悲惨さを伝えています。

 

私たちはここで1日広島を案内してくれた瀬戸さんに感謝を伝え、活動の現状などをうかがいました。

 

瀬戸さん:「『核兵器をなくしたい』と思っても、周りからは意識高いと言われてしまうこともあり、孤立しやすい状況にあることも多いです。でも今はオンラインで仲間を繋げやすい環境にあるので、なにかをしたいと思う人に声が届いて、繋がることができればいいなと思っています。」

実際に歩いて被爆遺産をまわることで、1発の原爆の威力がどれほど大きいかを知ったと話す参加者たち

被爆遺品から想像する惨状-広島平和記念資料館

2019年4月25日にリニューアルオープンされた広島平和記念資料館

東館の長いエスカレーターを上がると、原爆投下前の広島の街の写真が目に入ります。

商店街の様子、小学校の写真など今と変わらないにぎやかな日常から一変、1発の原爆投下により変貌した街並みに言葉を失います。

 

本館に移動すると、被爆の実相として、当日学徒動員で建物疎開をしていた10代の学生たちの遺品や家族の手記、顔全面にやけどを負った被爆者の写真や絵など、77年前に起きた直視しがたいほどの現実が数多く展示されていました。

 

生き延びることができたとして、被爆の影響で体調が悪化し日常生活を送れなくなることや、被爆者への差別で生きづらい思いをされていることは、今でも続いていることを忘れてはなりません。

「地球平和監視時計」

「地球平和監視時計」

地球の危機的状況の深刻化によって回転が早まり、一番下の歯車に達した時自壊する発想で作られている

平和への想いが集う場所-ハチドリ舎

講演・映画の上映会・お話会・音楽会など多くのイベントが開催される

ハチドリ舎は「人と人 人と社会 広島と平和をつなげるブックカフェ」。店主(オーナー)の安彦恵里香さん、スタッフの瀬戸さん、そして数人のメンバーで運営されており、カクワカ広島の活動の拠点ともなっています。

 

この日は「市民生活協同組合ならコープ」の方も取材に訪れるなど、多くの方がハチドリ舎に集まっていました。

私たちはカクワカ広島の発起人でもある安彦さんに、カクワカ広島の活動や、核廃絶への想いをインタビューさせていただきました。

「ありたい自分であることが一番大切であり、他人に強要しない「選ぶ」ことで自分が快適であることが大事」と話す安彦さん

午前8時15分平和への祈り-平和記念式典

午前8時15分。原爆死没者への冥福を祈り、ヒロシマの悲惨さを繰り返してはならないと「平和の鐘」の音が響き渡る

8月6日、わたしたちは平和記念式典に参列するため、平和記念公園に向かいました。

厳重な警護に入り交じり、デモ隊や参列者、取材陣、折り鶴を抱える人など多くの人が訪れていました。

式典中も平和を求めるデモ活動は続いていましたが、8時15分になるとあたりは静寂に包まれ、平和への願いと追悼の気持ちが一つになっていることを実感し、黙祷を捧げました。

 

核なき世界に向けてニューヨークから発信

核なき世界に向けてニューヨークから発信

 平和記念公園で配られた号外には、カクワカ広島共同代表の高橋さんが「NPT(核兵器不拡散条約)検討会議」で、核兵器廃絶への想いを訴える様子が掲載されていた

「人を傷つけるのではなく喜ばしてほしい」-語り部 堀江壮さんの被爆の証言

4歳の時に被爆。家族も被爆後、病に苦しみました。

4歳の時に被爆。家族も被爆後、病に苦しみました。

わたしたちは平和記念式典の後、再びハチドリ舎を訪れ、被爆体験の語り部をしている堀江 壯さんのお話をうかがいました。

 

堀井さんは4歳で被爆。その後のご家族の健康被害やABCC(現:放射能影響研究所)での出来事、世界情勢に影響されない食の見直しなどをお話してくださいました。

 

堀江さん:「みなさんにお願いしたいのは、人を傷つけるのではなくて、人を幸せにする、便利にすることをしてほしい。そして、もっとお米をたべてほしい。ラーメンもパスタもおいしいけれど小麦は輸入なので、不作があったり戦争がおきたら食べられない。その点お米は安いし、残さず食べてほしいなと思います」

 

(ハチドリ舎では8月だけでなく、毎月「6」のつく日に「語り部さんの会」が行われています。)

ツアーを終えて―平和への誓い

平和スタディツアーを通じて、核なき世界を希求する参加者たち(左から前田さん、金嶋さん、砂子さん)

2泊3日のツアーが終わりました。

最後に参加した役職員3人がそれぞれの想いを話してくれました。

 

金嶋さん:「77年前の今、この頭上に原爆が炸裂してあの惨状になったんだと強く感じています。蝉の声、夏の日差しなど当時と同じような環境に立ったことで、2度と起こしてはいけないとより実感しました」

 

前田さん:「まずは選ぶことから。小さいことからかもしれないけど、核兵器をなくすという世界に参加したいです」

 

砂子さん:「広島だからと区切りがちだけど、そうではない。東京に住む私たちは広く考えていきやすい環境に居るともいえるから、広い視点でさまざまな世代とかかわっていきたいと思います」

 

核兵器廃絶への取り組みや、平和への継承のために、はじめから目に見える大きな変化を起こそうとすると、どうしても壁が高くなりがちです。

ならば、「関心を持つ」ことから始めませんか?

「選ぶ」ことが積み重なるように、組合員への伝承をこれからも続けていきたいと参加者各々が感じたツアーとなりました。

 

今回のスタディツアーで案内いただいたカクワカ広島の皆さまをはじめ、多くの方にご協力いただきましたことに感謝いたします。